P. Story/パチンコ・・・昨日・今日・明日(1/13)




















































 ミサイル7-7-6D



































































































































































 

    1.Pとの出会い−1996年(H08)

     私が初めてPに触れたのは1996(H08)年夏頃だった。当時はまだ東京に住んでいた。あの日は京王線、南武線と乗り換えて、溝ノ口へ10時に約束した仕事の打ち合わせに行ったのだが、むせかえるような暑い日だった。
     昼はとうに過ぎていた。食欲もないまま、駅までの帰り道、あまりの暑さに耐えかね、喫茶店でもいいから涼しいところはないかと周囲に目を配っていたが見当たらない。半分あきらめかけたところにそれらしいところがあった。P店である。

     日差しを避けるように足早に中に入ると、店内をかるく風を切るように歩き回った。平日だけに5、6人の客しかいなかった。少々汗がひいてきた頃、両替機で1000円札を500円玉2個に。何も知らぬままデジタル表示がない台に座った。とりあえず500円だけ打って帰ろうと思い、500円を挿入。玉は1個4円である。125個の玉が払いだされる。ハンドルを回すと玉が打ち出され始めた。その台の中央には皿(クルーン)があり3つの穴が開いていた。もちろん玉が容易に釘の間を通過して皿の上に乗るはずもない。汗がひいてきたら少々寒い感じがしてきた。
     高いコーヒー代になるのか・・・
    と思いつつ、次の500円を入れて打ち続けたところで、突然玉がクギの間を通過し皿に乗った。そして良く分からないまま大きな音が鳴りだした。
     77表示、大当たりだ!
    気がつくとパンチパーマの店員が後ろに来ていた、怪訝な顔をしていた。ボーッとしていたら、
    「右打ちッ」
    と、男はにこりともせず、ハンドルを持つ私の手に自分の手を被せるようにして右に捻った。
     放っておくとパンクしてしまうのだ。
    あっという間に置いてあった箱がいっぱいになり、どうしようかとあせり始めた所に例のパンチ店員が無言でやって来た。手には空のドル箱を持っていた。彼は手際よく箱を入れ替えて去って行った。結果、2箱一杯になった。
     知らずに打ち続けようとすると、パンチ店員が急に近寄ってきて、ハンドルを持つ私の右手をつかみ、ハンドルからどけようとした。
    「定量だから終わりッ」
    とぶっきらぼうに言った。
     なにかにつけて強引な奴だなぁ・・・
    と思ったが仕方ない。上皿の玉を流し終わると、勝手にドル箱を持って行かれ、玉が機械に流し込まれた。レシートを受取ると4000個少々となっていた。
    カウンターへ行く。中年の女性からプラスチックのボールペンケースなどの景品と飴数個を受取ったのは良いが、パンチ店員も両替所を教えてくれない。やむなく出口付近に立っていた客に聞くと親切に教えてくれた。

     だが、その両替所がわかりにくい。商店街の狭くてカビ臭いような店舗間の路地裏を入って行くと、矢印のついた「両替所」というよれよれの小さな札があった。小さな窓口があり、その周りは目張りしてあった。そこにおそるおそる景品を差しだしたところ、しばらくして聖徳太子、金1万円分が小窓から出てきた! 驚きの偶然の結果だった。
     その台の名は後で知ることになるが、定量4000個、2.5円営業のミサイル7−7−6Dだった。


    <ミニコラム:1996年(H8)08月発売。普通機。出玉4000個、メーカー:大同>


     大同から発売された普通機、一発台と呼ばれた。中心のクルーン上の3つの穴の内、手前の穴に入ると大当たり。かつて、一発台や羽根モノは4000個等の定量で打ち止めとする営業形態がよくあった。いまではあり得ない、客寄せのための営業形態だ。特に羽根モノは、すべてではないが大甘クギだった。台には“4000個定量”のパネルが入っているので座っても打つことができない。故に店員に申し出て、台を空けてもらう。大した投資をしなくとも1〜2時間で4000個の出玉が期待できる。2.5円換算で10,000円。定量に達すると、台に先ほどのパネルを入れられて遊戯終了。だが、同じ人間はもう打てない。客寄せのためとは書いたが、プロらしい人が朝一から打っているのをよく見かけた。これで数軒回って1日の稼ぎとしたのだろう。今とはまた趣の異なる盤面がやけに懐かしい。


    <ミニコラム:この頃のP業界>

     P業界は1990年代(H02以降)に入り、一部に羽モノを残しながら大きく変わって行く。P台はマイコン制御、デジタル表示、液晶搭載が通常の仕様となり多様化、遊戯人口は約3000万人、市場規模約30兆円に膨れ上がった。P台は一度確変に突入し、この状態が継続すると、爆発的に当り続ける連チャン現金機と驚異の爆発力を隠し持つ2回ループのCR機が主流であった。だが一方でその過激な出玉のために、ゴトによる犯罪やのめり込みによる廃人化と借金問題、自殺、換金所強盗、子供の置き去り死等の事件が多発した。この問題は国会でも取り上げられるに至り、ついには警察への対応が求められた。警察はこれらの社会的不安要因を排除すべく、換金問題や賭博依存症といった本質的な問題を棚上げにして業界に指導を行った。1996年(H08)、日工組(*1)は内規改正を行い、CR機には確変5回リミッタが義務化、2回ループのCR機、連チャン現金機に“社会的不適合機”の汚名が着せられ、撤去の嵐が98年まで吹きまくる。この後、業界に未曽有の不況時代が到来するのである。

    (*1)日工組
    日工組とは、日本遊技機工業組合の略称。パチンコ遊技機等製造会社36社で構成する組合のことを指す。(2017年日工組HPより)


     


     それから1年、1997年6月、いろいろあって私は自分の生まれ育った地方に帰郷していた。Pとは全く縁がなかった。オリンピックが1年後に行われることが決定していたが、いかんせん田舎のことである。町中にノボリはたくさん立っていたが、景気とは何の関係もない風景だった。


    2.久方の再会

     仕事探しに忙しく、Pからは足が遠のいた。ハローワークへ日参しているためだ。
    設計関連の会社が1つ目についた。担当者に連絡してもらうと、今日15:00頃どうでしょうということだった。いつもの喫茶店でもう一度資料を取り出して読んでみた。

    マイコン(*1) 経験者優遇か・・・前の経験から、マイコンの文字のある求人を出している会社へ面接に行くと、自分の履歴書を見るなり
    「あー、ウチでは小さなマイコンを使っているだけで、専門家のNさんにお願いできるような仕事はないですが・・・」
    と言われるのが落ちだった。また、ある会社の面接ではハードウェア、ソフトウェアどちらか選択になっていたが、ハードの試験が半分の時間で終わったので担当者を呼び、ソフトの試験も受けた。これも半分の時間で終了。合格といわれたが登録だけにしてもらった。どこかで開発・設計の請負仕事をしているようなそぶりを見せてはいたが、結局、人を投入するだけの派遣だった。別にそれが悪いわけではない。ただここで妥協したくはない。

     そこで作戦を変更した。履歴書、業務経歴書の専門的内容を省略して簡単にし、マイコン、パソコン関連に限定するのだ。早速自宅に帰り、1時間ほどでPCでそれを作りなおした。書類の準備は整った。14:00には出発である。それにしても田舎では自動車通勤しかできないところが思ったより多い。会社も店も駅から遠いのだ。皮肉かな、あちらこちらに面接に行ったので齢35にして車の運転技術がペーパードライバーからどんどん上がった。

     15:00からの面接は手ごたえがあった。今問題になっている物件の話が中心となり、その解決法を示唆したからだ。ここならJR 一駅分なので公共交通機関を使って通うこともできる。数日後に回答をもらうことになっている。既にあたってみた会社の数は10件を超えていた。ここまでくればダメ元である。

    若干気が楽になったところで、ふと、東京で知り合いになった外注業者の年上の友人S氏を思い出した。

    「もしもし、Sさん、どうも御無沙汰してます。儲かってますか? 」
    「あれ、Nさんじゃないですか? まあまあ忙しいですけれど、今どこですか?」
    「今地元からなんです。」
    「偶然ですねぇ・・・私も同じ所にいるんですよ。ところで大手で働いていたのにどうしたんです?」
    「いやぁ・・・宮仕えはもうくたびれましたわ」
    「そうでしょうねぇ、その性格からして。今日は納品に行かねばならないので帰りが遅くなるんです。明日あたりどうですか? 積もる話もあるし、ちょっと聞きたいことがあるんですよ・・・」
    「本当ですか? では会ってゆっくり話しましょう。どうせこちらは求職中ですから。仕事が終わったら電話ください」
     話は早い。翌日会って飲もうということになった。この時はまだ知らなかったのだが、この友人Sが再びPとの関係を呼び戻すことになる。

     翌日18:30 駅前、某小料理屋前にて。

    「いや、Sさん、どーもご無沙汰してます」
    「Nさん、どうしましたか? いいとこに勤めていたのに・・・? ま、Nさんの性格だとわかりますけど」
    「ま、ま、とにかく中へ入りましょう」
     暖簾を潜るとなぜかおかみが待っていた。おかみは40位の和服の似合う年増の美人なのである。
    「あれ? おかみさん?・・・」
    「今さっき声が聞こえたから待ってたのよ。なかなか入ってこないから迎えに出ようかと思ってたとこなの。」
    「いつもお世話様です、あの、座敷空いてますかね?」
    「ぜーんぜん空いてるから大丈夫。でも今日はばかに早いわねぇ?」
    「今日は前に話した、おかみさんと同郷の友人を連れてきましたよ」
     S氏「あっ、どうもお世話になります、Sと言います」
    「ようこそいらっしゃいませ。さ、さ、お入りください」
     どうも同郷人同志、探り合うような目線を一瞬感じた。
     座敷に上がり対面で腰を落ち着けた。
    「ビンビールでいいですか?」私が尋ねた。
    「まずは軽く乾杯しましょう、久しぶりだし」
    「ほんとですねぇ、あ、ここに赤霧島をボトルキープしてあるんで、後でそれをやりましょう」
     ちょうどそこへおかみさんがやってきた。
    「飲みものは何をお持ちしますか?」
    「ビンビールで。後、瓦焼き、イカの沖漬け、キビナゴを」
    「はい。そうそう、赤が入っていたわね、後でもってくるからね」
     S氏が妙ににやにやしている。
    「なになにNさん、ここにはよく来ているようですねぇ・・・」
    「いやぁ、週2くらいで来てるんですわ」 実はもっと来ることもあるのだが。
    「へ〜・・・おかみさんもきれいだし。相変わらずそこは変わりませんなぁ」
     そこにおかみさんが妙ににこにこしながらビールとキビナゴと沖漬けを持ってきた。
    「お待たせしました」
     おかみが切り出した。
    「Sさんは京都はどの辺のご出身なのかしら?」
    「舞鶴です」
    「まあ、それならほんとに近いわねぇ、今後とも宜しくお願いします。」
    「こちらこそ」
    「じゃ、お注ぎしましょう」
    良い音でビンからビールがコップに注がれる。
    「それでは再会に乾杯!」
    おかみが去ると、S氏は待っていたかのように語りだした。
    「実は面白いソフトを作ってもらいましてね。P店舗が全国的に有料で公開している出玉のデータがあるのは知っていますか?」
    「そんなものがあるんですか?・・・」
    彼は私の疑いの目を見て諭すように言った。
    「会費を払えば、ネット上のデータにアクセスできるんです。ある人に費用を払って、そのデータをエクセルに読み込んでその波を予測するプログラムを作ってもらったのです。」「いくら払ったかは聞きませんが・・・P客が金を払ってまでその資料を欲しがりますかねぇ? 基本的にP客はセコくて欲が深いですから。残りの500円まで使い果たしてオケラで帰り、翌日また懲りずに、金を工面してPに行く、つまりその日暮らしでしょう?・・・そのデータとソフトがどういうものかわかりませんが、到底金を払う価値があるとはとは思えないのですが・・・

     それから、数学的に言いますと、サイコロはたった6個しか目がありませんが、次に振った時、何の目がでるかを予測することはできないんです。もしできたら、数学や物理の教科書が書き換えられることになります。もしベイズの法則を考慮して事前確率の考えを導入した方法論が単純確率に関して可能なら、サイコロに細工があることになります。
     大当たりに波があるように見えるのはわかりますが、その予測は残念ながら不可能ですよ、いくら払ったかは聞きませんが・・・それで実践データとの比較を行いましたか? 実践すると必ずズレが出るはずですから、プログラムの修正をしなければなりません。プログラムの変更に関する契約はしましたか?」
    「そう言われると思いましたけど、まだ使ってないんです。その契約もしてない・・・」
    「作りっぱなしですねぇ、言い方は悪いですが・・・まさか、騙されてはいませんよね?」
    「またそういうことを言う・・・」
    「いやぁ、心配して言ってるんです」
    何をかいわんや、である。
    このように素人の思い込みで科学的に根拠のないものに手を出すと、簡単に騙されてしまうことを心しておくべきである。


     (*1)マイコン
     日本には独自の略語が多い。マイコンという言葉も正確にはマイクロコンピュータの略語である。パソコンはパーソナルコンピュータの略語であるが、2017年現在もマイコンとパソコンの区別ができない人が非常に多い。パーソナルコンピュータの頭脳となっているのがマイコンである。当時のものは数値演算ユニット(ALU)を中心とした外部バス方式であり、外部とアドレスバス(16ビット、64Kバイト空間を保有)、データバス(これが8ビット)、複数の制御線で接続する。ハ−ドウェアとしてはプログラムを書き込んだROM、I/O(入出力)をバス接続することで1つのシステムとして動作する。これがなければパソコンはただの産業廃棄物である。

    当時P台に採用されたマイコンはザイログ社Z80であった。ザイログはインテルからスピンアウトした技術者が設立し、Z80は彼らが開発したものだ。後に業界標準となる画期的な8ビット・マイクロコンピュータである。これは80、90年代と電子業界で広く採用され、様々な分野に応用された。言語はアセンブラである。ただ当時は半導体製造技術の関係でROMサイズは、メモリ(I/O)空間が64Kあるにもかかわらず、4K、8K程度に限られていた。但し、インテルは現在もマイクロコントローラと呼称している。

    余談だが、かつてゲームセンターに置かれていたインベーダ等のマシンにはモトローラ社のマイコンMC6809が搭載されていた。これは命令言語、ハードウェアを含めて究極の8ビットマイコンと呼ばれた優れモノであった。ハードウェアのシビアなタイミング設計という困難なしに、同期用Eクロックにより全ペリフェラルIC(周辺IC)を制御できた。故に世界のコンピュータはインテルまたはザイログとモトローラで2分され、シェア争いをしていた。これは今も続いているが。

     当時、日本の大手電機メーカーはこぞって両社と超高額な契約料とライセンス料を支払ってサードパーティとなり、無節操にいずれのマイコンの製造も手掛けた。結果として、その技術が基礎となり、あらゆる家電品には優れた日本製4ビットマイコンが、また自動車においては64ビットマイコンもしくはマイクロプロセッサユニット(MPU)が複数搭載されるにようになったのである。(日本製とは限らない)このマイコンだが、P業界も電子化の波に合わせて取り入れてきたことは周知のことだ。ただし、それと並行してROMばかりでなく、MPU(集積チップ)の偽造に代表されるような高度なゴトも発覚した。今では、大当抽選方式をランダム化し、セキュリティコードを付加するまでに至っている。詳細は後述。
     左は自宅に保管しているZ80B(6MHz、Aは4MHz)、MC68B09(8MHz、Aは6MHz、6809は4MHz)の写真。懐かしのDIP40。いづれもA,Bの2タイプがありクロック速度が異なる。現在のパソコンは数GHzにまで達しており、その差は約1000倍である。

      "メニュー"                                            "次ページ"