P. Story/パチンコ・・・昨日・今日・明日(11/13) 































































































































































16.<Pは悪なのか?>2017年(H29)


<異常にPを嫌う者達>
 10章では韓国のメダルチギ関連の記事に触れた書籍を3冊紹介した。他にも多く調査したのだが、その中で、とにかく著者がPに対し異常な程に敵対心+嫌悪感をもっていると思われるものがかなりあった。当然Pのみかギャンブル一般反対論者である。中でも標的はPであり、彼らはほぼ全員Pは違法ギャンブルと断定し、Pを行う者は全員ギャンブル依存症であると言わんばかりの勢いである。

その典型的な例が次の書である。

・「ギャンブル大国日本」 古川美穂 岩波ブックレット 2013
・「ギャンブル依存症」 田中紀子 角川新書 2015

尚、P廃止論者の急先鋒、若宮健氏の著書は既に述べたので割愛させていただいた。だが、若宮氏の書は上記の書に比べれば、部分的に問題があっても、論理的でありまだ良い方である。

<P環境の変化>

ここで2004年以降のP業界の変化を概観してみよう。

 2004年(H16)風適法改正。落ち目だったPはCR機の確率分母が500MAX、確
        変割合50%撤廃、ギャンブルマシン再登場、PSはギャンブルマシ
        ン4号機撤去の嵐が吹きまくる。
 2007年(H19)P店倒産件数最大になり、P人口は最低の1450万人に減少した。
        P業界はこの状況を打開するため、この年、低貸し玉P、PSを開始
        した。
 2013年(H25)P人口970万人とさらに最低記録更新。
 2015年(H27)本格的な出玉規制がスタート。
        市場規模24兆円、店舗1万1千余に縮小、P人口1000万人に(微
        増)1円Pに代表される低貸玉営業が全店舗の約96%に拡大
        (注:Pはパチンコ、PSはパチスロの略)

 P業界は2004年から2015年までに大変な低迷期に迷い込んでしまった。その一方で、低貸し玉Pは店側の営業努力、団塊世帯の退職・高齢化と相まって広く普及してきた。全国的な普及率は、2009年で約半分の53.34%、2013年には90%、2015年には96.5%となっており、ほぼ日本中のP店で採用されている。


 (H27.PTB資料)

その内訳は2円8割、1円9割、0.5円7割となっている。

(H27.PTB資料)

 実際に観察していると、低貸し玉のシマは土日祝日は朝からほぼ満員。平日も時間差はあるが、朝から老人で埋まっており、夕方には老人はほぼ帰宅、会社帰りの男女で7、8割は占められる。
ここでデータを見ると、2013年の遊技人口が970万人と最低を記録したが、2014年には180万人増、2015年80万人減と年毎に底辺付近での微増減を繰り返している。

 (H27.PTB資料)



 
 次に、高齢者人口の推移グラフを見ると、H27年以降、65〜75歳の人口比率はほぼ変わらず、75〜80歳の比率が減少する代わりに、急速に80歳以上が増えて行く。団塊の世帯だ。80歳以上になると体力的にも限界が来る上に、認知症の問題が大きくなるため交通手段が限られてくる。そのためそのP人口は非常に低いのが現状である。

<Pと高齢者について>
 2017年末、高齢者=65歳以上の老人たちが3461万人。
日常生活に影響のある65歳以上の者が男女合わせて1000人に対し、258.2となっていることから、約900万人が外出もままならない。


 さらに65歳以上の認知症患者が男女合わせて約1000万人。認知症になってはPを楽しむことはほぼ出来ない。


要介護2以上は300万人。(ある老人は脳梗塞で半身不随、杖での歩行距離は約3m、2016年要介護3から2に格下げされた。) もちろんPには行けない。


 
こうしてみれば、重複はあるものの3461−1900=1561万人、その内10人に1人がPに行くとしても156万人となる。しかも近年65歳以上の老人のP人口は増加傾向にある。(但し高齢になるほど低下)

よって、パチンコ人口1070万人、その内、65歳以上の男女約160万〜200万人がP店に足を向けていることになる。

では80後半の老人たちは日々どうしているのだろうか? 元気な人ならPに行けるが、体力の弱った田舎の老人ならこんな具合ではないだろうか・・・

朝5〜6時頃起床(無駄に早起き)。朝食(前日夜、家族が作り置き)。テレビ視聴(BS時代劇)。昼寝(1〜2時間)。昼食(家族が作る、夕食作り置き)。テレビ視聴(〜13:30)。昼寝(1〜2時間)。テレビ視聴(BS時代劇、笑点再放送)。夕食。歌番組(BS演歌)かBS時代劇。就寝(21:00)。(筆者の家の場合)

他の楽しみは週1〜2回のデイケア(食事、風呂有)。半身不随となったジーサンのみがデイケアを利用。バーサンは腰椎骨折(2箇所潰れた)のため一時寝たきりとなったが、今は手すりにつかまりやっとこさ家の中を歩いている。オムツが必需品、デイケアどころではない、飯も作れない有様だ。東京オリンピックが来ると90歳。Pどころの話ではない。

 それはさておき、4円Pでは、P店は規制緩和後の2015年までMAX台に力を入れて営業していたのだが、その射幸性に問題ありとされ、2017年にはすっかり撤去されてしまった。2018年からは厳しい出玉制限を課せられた台(分母320以下、4時間で15000発以下)が登場してくる。よって爆発力の無い台が勢ぞろいするが、それ以前の台も残っているので4円P遊技人口はすぐには減少しないだろう。だが、2019年からは減少が見込まれる。一方、高齢者の主力65〜75歳の比率がほぼ変わらないことと、若年層が低貸し玉Pに移行してきているので、低貸し玉P人口は現状+αで推移するだろう。とすると、今後P遊技人口は大きなプラス要因が見つからず、このまま低迷状態を続けることが考えられる。ただ、低迷しているにしても、10人に1人程度の遊技人口であることには変わりない。低貸し玉Pは特に国民の娯楽として既に浸透しているのは明らかだ。


 

<Pの現場>

 それに1円Pは気楽にできるので、朝から並ぶ必要もない、運よく1万発出ても1万円以下にしかならないので鉄火場にはならない。(実際は手数料8〜10%位引かれる。)したがって、事件も起きようがない。筆者の経験では、遊パチでの最大出玉が1万8千発であった(両替時、1円Pで約16200円)。このようなことはめったにない。通常は1000〜2000発以下の出玉であり、ツキがあり連チャンして3000〜5000発である。すると、次は大ハマリが来ると見て客は台を離れる。無論大当たり確率が1/300のP台となれば数値も出玉も全く異なるが、1円コーナーではミドル台は割と敬遠されており、客付きは悪い。17時以降になると、客層が変わるので活況を呈する。


 1円Pは確かに老いも若きにも人気がある。だが実は、1円P台は4円P台に比べて回らない、即ちボーダーがかなり低い。200円/200個打ち込んで10〜15回転程度がボーダー平均値であり、回転ムラが発生すると0〜5回転/200円程度に落ちてしまう。例えば、釘構成の悪い“CR Another アナザー”が良い例である(1000台以上の某大型店舗。2018.1現在)。
4円P台が1000円250個当たり何とか15〜20回転するのとは大違いである。正直1円コーナーは甘くない。釘読みや止め打ちの技術無しで、平打ちのまま挑戦するのは大変危険である。4時間あれば、玉の出入りを繰り返しつつ5000円をすっかり紛失してしまう。だが、粗利の低い1円Pではやむを得ないのだ。

 次は筆者がある日の土曜日、14時ごろに見たことである。1000台以上ある店内は満員、P、PSとも空き台はほぼ無し。早速1円コーナーに行ってみる。全く空きなし。あるシマの中ほどで70歳位と思われる老人が1/300のガロを打っていた。何と回転数は既に300を超えていた。しばらくして再び見に行くと、同じ台に同じ老人。どんどん金をつぎ込んで1回の当たりも無く、500、次には800回転に達していた。夕方にまた見に行くと1000回転を過ぎていたが、まだ粘っていた。もちろん当たりなし。

時折店に戻って、ご老人が打っているところをあるときは近づき、またあるときは遠目に観察していたのだが、保留が1、2個しか点灯していない上、時には画面がデモに変わるほど回らない台であるにも関わらず、とにかく打ち続けていた。初心者と思われるのだが・・・これでは1円Pであろうとも、金がいくらあっても足りない。確実に1万円以上投入している。こうしたところに平打ちの恐ろしさが出る。かたくなに自分流を通すのは人の勝手だが、学ぶことを知らなければ何事もうまくいかないのが道理である。会社で何をしていたのかと疑いたくなるが、たかが1円Pと高を括っていたのでは、P反対論者のいい餌食になってしまうのが落ちである。

 これらの著者が原稿を書いた時期はいづれも2012、2014年までであろう。データを調べれば、どう考えても当時でさえ低貸し玉Pは全国で9割に到達しており、同時にP業界は全体として氷河期に突入していることがわかるはずだ。国民を堕落させ、国を滅ぼすような勢いは、既にPには無くなってきているのだ。

現場に行けば、初老の夫婦が“餃子の王将”で当たりを引いて楽しそうにしている姿や、並んで“海物語(ドラム)”を玉のやり取りをしながら仲良く打っているカップルの姿もみる。もちろん、怒って帰る人、1、2時間ほど遊んで帰って行く人もあれば、上のような頑ななご老人もいる。現場に来れば様々な人間模様を見て取れる。Pをする者が全員依存症であるとか、一度打っただけで依存症になるとか、Pが悪であるという乱暴な論理は成り立たないはずだ。
では次でその理由を見てみよう。

 

<大きな勘違い・・・1>

 これらの著者らは2013年の統計上の推計に過ぎないギャンブル依存者536万人説(厚労省調査)を頭から信じているようだが、2017年の調査では約320万人に縮小している。(調査方法の違いも指摘されている)

今回の調査では、全国300地点の住民基本台帳から無作為に対象者を抽出したという。16年度調査の4.5倍となる20〜74歳の1万人に対象を広げて面接を実施し、4685人分の有効回答を得た結果である。

20〜74歳の依存症が疑われる男女の内訳は、男性は6.7%、女性は0.6%
直近1年で、ギャンブル経験を元に依存症が疑われたのは32人0.8%
これにより20〜74歳の依存症が疑われる男女の人数は約70万人となる。直近1年という所が大事なのである。

536万人→320万人→70万人とさらに少なくなった


ここでギャンブル依存症が疑われる人の割合を諸外国と比較した次のような最新データがある。(見やすく編集してあるが、データはそのまま。)


  カジノの無い我が国は直近1年で0.6%であり、筆者が算出した0.8%と非常に近い。しかもアメリカ1.9%に比べればその半分である。生涯データを見てもオーストラリアとそう変わらず、人口比率からヨーロッパ諸国の2倍程度の数字が出ても全くおかしくは無いのである。
ちなみに、アジア諸国において病的賭博と推定される者の割合は

 シンガポール 0.2%、韓国1.5%(2014)
疑いのある者は
 シンガポール 0.7%、韓国5.4%(2014)

である。いづれの国もカジノがあるが、シンガポールは2008年2.8%から年々下がって0.7%と1/4になっているのが特徴だ。韓国は断トツの高さを誇っているが、2008年9.5%から半分近く下がっている。

 こうしたデータにこそこれからの日本のIRとP、公営ギャンブルの将来の姿が隠されているのではないだろうか? 自然に減少する分もあるはずだが、それだけで数値が1/4や半分以下になる訳がない。そこには合理的な対策がなされているはずだ。これこそ日本が大いに参考にしなければならないのではないだろうか? メダルチギの話など何の関係もないのである。だが、ギャンブル廃止論者は誰一人として調査をしていない。なぜだろうか?

 上記の本に限らないが、ろくに検証もせず、マスコミのお祭り数字にごまかされているものが多すぎる。性急に結論を出そうとすると、とんでもない結果がもたらされることがあるのだ。それにヒステリックな報道にも大きな問題がある。結果として、我が国日本は世界第一のギャンブル依存症大国ではないのであり、その逆にその勤勉な国民性からいえば、節度を保っている方なのである。

著者の暴走はそれだけではない。ギャンブル依存はちょっとP店に入って遊技した時点から始まるとしており、一部のデータや医師の発言を例に、ドーパミンが出まくり、そのままハマって行くという大変乱暴なリクツを唱えてもいる。


 P、PS、競輪、競馬、競艇、オートレース、(賭け)麻雀、カジノ・・・すべて一把一絡げ。とにかく、その存在自体に問題があり、“悪”と決めつけ、“桃太郎侍”並みにそれを憎み、切り刻もうという意気込みが伝わってくる。“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”式の短絡思考である。

後述するが、フィールドワークに徹し、P台やP客への理解やその動因、歴史を深めようとした加藤秀俊先生とはそのスタンスが異なる。「ギャンブル」という題名の付いた書は、知ったかぶりの素人考えが散見され、感情的な文字の繰り返しと冗長な羅列が多く、データも信頼性が薄く、思い込みが強い。

もし今日、若き頃の加藤先生のような研究者がいたなら、もっと感情を抜きにした有意義なP関連の著書が生まれていただろう。良い意味でも悪い意味でも、真に混迷、低迷の時代を迎えたP業界に重要な提言をしていただけたのではないだろうか。


 

<大きな勘違い・・・2>

 また、この著者らは市場規模20兆円(96年30兆円)と言われるその金額を明らかに勘違いしている。著者らはそのほとんどをP業界が懐に入れており、ほとんどのP客が大損しているようなイメージ操作をしている。今日明らかになっているようにパチンコ店の粗利は約10%(8〜12)前後、実にその約85〜90%を客に還元しているのだ。出玉率との絡みがあるのでよ〜く勉強してほしいものだ。

では、平均的なP店の台数を400(2017年PTB資料による)、休日の稼働率60%(こんなに低くは無いが。)として、1日の売り上げを計算してみよう。まず1日の売り上げは、約5800万円と試算できる。

出玉率を92%、釘調整による出玉率の低下分を考慮して80%とした場合、粗利は約46万円程度となる。最近P店は休まずに営業しているので、これの8倍、平日分を50%として23倍すると、368万円+529万円=897万円となる。そういえば祝日が月1日はあるので、粗利は約1000万円/月とみておけばいいだろう。

一方、1日の粗利が12%もダウンしているのが判ると思うが、これこそが新聞でも取り上げられた規制内容にあるベース問題に関係している。2018年2月以降の台は、大当り確率下限1/320、確変継続率65%以下、ベース30以上(100玉打ち出しで賞球30玉以上)というスペックとなる。これは検査に持ち込まれる台と同じレベルである。これで釘をいじらない、ということになると、P店の粗利はもっと厳しくなり、客への還元額が増えることがわかるだろう。文字通りなら店側は交換率を下げる等の対策が必要になってくるが、そう簡単にベースを上げることもないだろう。今後楽しみでもあり心配でもある。


注)粗利については、業種によって計算方法が異なるが、
基本式、粗利=売上高−売上原価
に則ってここでは計算してみた。



さらに、著者はP業界の売上20兆円は外食産業やIT産業と同じ売り上げだとして、始めから無条件に比較しているが、それがまた実に浅い。もっとよく経済を勉強し、経験を積むべきだろう。

平均的なところでは、外食産業の粗利は約40〜48%と高く、利益を出しやすい。(1000円もするラーメンなどどれだけ粗利を取っているかが想像されるだろう) IT産業に至っては約30%といったところである。電子技術関連企業(開発・設計・製造販売)も似たようなものである。もちろんハードとソフトとをイッショクタにはできない。ソフトの主たるものは人件費であり容易に粗利を30%以上出せる。もちろん良い人材がいればだが。今は人間のレベルも下がっており、当然原価も下がっている。ハードはかつて50%以上の粗利を出せたのだが、オープン価格の悪弊と0円、100円のタコ商売による原価無視、商品価値無視の風潮が蔓延したために、“定価の半値8掛け”のような事態に陥ってしまった。容易に数値が出る。それが実態である。

どうだろうか? これでも外食産業やIT産業とP業は同じレベルと言えるだろうか? 粗利は外食産業の1/4、IT産業の半分以下である。正しい分析もせず、いい加減な判断で、P店が一人勝ちしているようなイメージを勝手に作り上げてはならない

 

ところで、国税庁の平成26年事務年度における法人税等の調査事績によれば、

不正発見割合の高い10業種(※カッコ内は前事務年度の順位)
 
 
1件当たりの不正脱漏所得金額の大きな10業種(※カッコ内は前事務年度の順位)

 
となっている。これではある本のP関係者へのインタビューで「P店経営者の多くはまじめな人たちだ」と言われても納得がいかない。(パチンコ産業30兆円の闇−政財官癒着の全構図 H8より。) かつて“オオタ事件”のようなものは存在したが、それは利益を独占したいという欲望に取りつかれた、極一部の不心得者の行ったことである。そうしたゴトは論外だが、いつまでたってもこうした不道徳な面を払拭出来ずにいる限り、いかに低貸し玉Pが娯楽として国民に認知されようとも、手放しでこれを喜べないのも事実である。

(ここでPとは無関係だが、気になるのが鉄鋼卸売の名前だ。2017年神戸製鋼のデータ改ざん問題がクローズアップされ、大騒ぎとなった。ここに大きく関わっているのが、鉄鋼卸売を担当するメーカー商社・神鋼商事だ。)

 ギャンブルのために子供を死に追いやったり、犯罪に走るのは、その還流分を独占したいという、愚かな欲望に捕われた不心得者=病的依存者の行った“人に有らざる行為”である。こうした人間はP人口の中でもごく限られている。IR法案が成立したこともあり、そうした観点からなら、依存症対策をしっかりやって行かねばならないと筆者も思う。これらの問題は未知ではない。前述の通り、シンガポールや韓国にヒントがある。ルポライターやジャーナリストを名乗るならしっかり調べてもらいたいものだ。

 だが、Pを楽しむ者までギャンブル依存症だなどというのは明らかに国民をバカにしている。つまり自分は1段上の知識人階級になったつもりなのだろう。筆者に言わせれば、ネット上に蔓延するエセ知識人と同等ということになる。これこそ正に大いなる勘違いであり、そこに居座り、ガセ本まで書いて作家ヅラすることで陶酔感を得ているのなら、これこそアディクションと言わざるをえない。

この岩波ブックレットも角川新書もあまり読まれていないことを望むものである。こんなことでは角川はどうでもいいが、岩波”の名が泣いているゾ
(尤も、既に書店にはないが、ある図書館には置いてある。その判断は読者の自由だが・・・。)


 

<物書きのスタンス1>

「ギャンブル大国日本」 古川氏は東日本大震災後の被災地を2012年に訪問している。その目的はアルコール依存とギャンブル依存が蔓延しているという話が本当なのかということと、被災地でP店が大盛況になっており、被災者と住民の間に軋轢が生じているという話を確認することだ、という。
 被災した人々が一時的に苦痛から逃れるため、気晴らしにP店に出かけている状況がレポートされている。P店は大盛況(2013.1)とのことだが、相変わらずそこからいつものパターンが導かれる。
“最初はちょっとした気晴らしが病的なのめり込になるケースが多い“
というものだが、1人2人の例を出しただけで、なぜ”多い“と断定できるのだろうか? アルコールについても同じ論法だ。しかも著者はその人数は全くわからないと言っている。こうした無責任な論法は読者に先入観を抱かせる。医師へのインタビューも結構だが、そのまま鵜呑みにしていては公正な判断はできない。世界の病的依存症については<大きな勘違い・・・1>で述べたので繰り返さないが、日本国内にさも大勢いるかのような書き方は全くの誤りである。

 換金の違法性についてもさんざん繰り返されているが、違法との司法判断は未だかつて出ていない。2017年には国会で合法との答弁が正式になされており、何も問題になっていない。それにP業界は風適法の下にある。重要な検定機関(一般財団法人保安通信協会=保通協)やINとOUTに関わるICカード会社やP周辺機器の会社に警察OBが就任しているからといって、証拠も示さずに、直ちに癒着だ収賄だと騒ぎ立てるのは全くおかしい。建設業界、電子業界(筆者は詳しい)をみても技術に関わる監督機関がある以上、官公庁との関係が保たれているのは当然のことである。例えば、家電品一つとっても電取法においてちょっとした法改正が行われた場合、その内容が民間会社の担当では判りにくい場合も多々ある。こうした場合には監督官庁や検定機関(経済産業省元OBの丁寧の解説付き)の説明会にわれわれが出席して解説していただき、今後の方針についても相談するというのは当然のことである。業界の詳しい事情も知らずに、ちょっと首を突っ込んでみた、といった風の取材や記事は論外であり、メダルチギに関する記述などはウソの羅列であり、無知蒙昧をさらけ出しているだけである。

 最後に、P,PSをはじめとしたギャンブルマシンの数の多さから日本はギャンブル大国であるなどと言っているが、これも全くの誤りである。全世界にあるゲーミングマシンの数の中で日本のその数が世界一だからという理由なのだが、このゲーミングマシンの定義が間違っている。著者は、“ゲームをする目的に使われ、ゲームで受けるリスクよりも大きな潜在的リターンを利用者に提供する機械をさす”と言っている。どこからこの文言を引っ張ってきたのだろうか? 出典が示されていないので勝手に考えたのだろうか?

大変申し訳ないが、ゲーミングは基本的にカジノを指すのであり、欧米の常識や最近の定義(「ゲーミング企業のマネジメント」リチャード・マガウァン著)では、エンターテイメントにギャンブルが包含されたIR型の施設を指すようになっている。その基本的な考え方はMICEと表現される。

 M:Meeting   I:Incentive  C:Convention   E:Exhibition

これこそ日本も目指す複合型リゾート=IRなのである。
国際会議場、ショッピングセンター、ショービジネスなどがメインであり、巨大な遊戯施設の中の一部としてカジノがあるのだ。しかも、数時間楽しむのではなく、中長期滞在型の施設である。諸外国ではIRに滞在する外国人客は滞在中に600ドル以上の消費を行っているとの統計資料もある。カジノは裕福な外国人旅行客向けであることを忘れてはならない。基本的にカジノは日本人のために作るのではない。

だが、日本人向けも必要なのである。なぜか? それは近年多発したスポーツ選手らによる闇カジノ問題にある。日頃過酷な練習を積み、食事制限もしながら研鑽に努める選手たちだが、極度の緊張状態が何年も続けば、息抜きは一般人以上に必要であろう。闇カジノに使った金を批判する向きもあったが、息抜きにどう使おうとそれは個人の自由である。破産したとしてもそれも本人の問題だ。だが、選手らはそんな一般人のような“アホ”ではない。というのは、彼らは才能ある選ばれた人間であり、大学で専門知識を習得している上に、世界選手権やオリンピックという大きな目標を持っているからだ。一般人とは次元がことなる。100万だろうが1000万だろうが大きなお世話なのである。こうした苦言を呈する輩は1円もかれらに費用を拠出していないはずだ。聖人君子ぶって金に汚いことをいう人間こそが拝金主義の守銭奴である。そのようなことを言う資格は全く無い。守銭奴は社会に必要ないが、優れた選手は得難いダイヤモンドのような存在なのである。叩かれた選手たちよ、東京オリンピックに向けて再起せよ! こんなことで潰れないことを祈るばかりだ。

 残念ながら、闇カジノは東京を中心にして全国にあり、例えば各県に1か所としても、全国で最低47箇所あることになる。政令指定都市を別格とすれば100箇所位はあるだろう。反社会的組織が“ゴト”や“オレオレ詐欺”と同じく自らの資金集めのために行っているのだ。近年は警察の目が一層厳しくなっているため、どんどん地下に潜って行く。このようなものに手を染める位なら、正式なカジノを外国人用と1件だけ日本人向けに作ればよいのである。そして今の公営ギャンブルと同じく、その収益金の一部を国民生活やスポーツ資金に還元すればよいではないか。そうすれば、金メダリスト・小平奈緒さんのように苦労する人が少なくなるのではないだろうか?

 ストレスは人それぞれに異なる。だが、震災で全てを失い心的ダメージを負った人々に“Pのような下賤なものをやるな”、“配られた補償金を無駄にするな”などとどうして言えようか? 大きなお世話である。人のために1円も出さないような金に汚い奴=偽善者ほどこうしたことをほざく。拝金主義が蔓延した結果、今の日本には口先だけの怠惰な人間が増殖してしまった

ギャンブルだけが人間を怠惰にするのではない。残念なことである。カジノができれば国民が怠惰になり、国が滅びるとは何とも見当違いで大げさなご意見である。既に日本人は不道徳極まりない民族になり果てつつあるのだ。

 次の驚きのご指摘は「東日本大震災」と「原発事故」の連結である。
「日本ではPと公営ギャンブルが野放し」「カジノの経済効果ばかりを宣伝する政府」「汗水たらして誠実に働く国民を作るのが政府の仕事」と言う某氏のりっぱな進言を鵜呑みにしているようだが・・・

 前述したように、違法ギャンブルについては警察が厳しい目を光らせている。たった1本の釘が曲がっていたというだけで、2014年、筆者の近隣にある、あるP店の全店舗は2カ月の営業停止処分、最も厳しい営業許可取消処分を受けたオオタ事件(Pメーカー社員まで逮捕)等、警察は厳罰で臨んでいる。証拠も示さずに、利権、癒着、天下りといった大衆受けしやすい言葉だけを羅列して、いかにも“悪”であるかのようなことを書き連ねても、それはあまりに空虚である。ギャンブルは全て法の下にあるのであり、決して野放し状態ではない。

 日本はアメリカの核の傘に守られ、軍事費を捻出する必要性から遠ざかる恩恵を長く受けてきた。そのおかげで「汗水たらして誠実に働く」ことで高度経済成長を実現したが、先進国において、資本主義は世界的に成熟段階に到達している。これまでの日本は、原材料を輸入してモノ作りをし、製品を輸出してきた。だが、既にこの方法にばかり頼っていては1億の国民を食わせていうことができなくなってきている。その理由は前にも述べた。もはや世界の先進国の中で日本の1人当たりのGDPは22位に落ちている。つまり21世紀に入り20年経とうとしているが、この間の世界経済の変化に対応できず、またその対策を怠ってきたために、日本人は大変効率の悪い仕事の仕方をしてきているのだ。他の先進国のトップ企業は今や製造業では無く、IT企業なのである。なぜ、世界の半導体製造、コンピュータ関連の大手企業がその事業部門を以前からアジアを中心とした外国企業(例:IBM→Lenovo)に売り払ってきたのか、そしてこれからも売り払おうとしているのか、その様な遅れた考え方をしていては全く理解できないだろう。

 かつて1980年代、われわれは、産業のコメといわれた半導体業界で命を削って研究・開発・設計・製造を行い、業界をリードしてきた。当時はパソコン(PC)は事業部への割り当てで各課に1台ずつ確かに存在したのだが、アプリが無く誰一人触る者もなかった。100万以上したPCも何の使い道も無く、1年経っても埃を被ったままだった。われわれの時代は非常に優れたミニコンVAX11(UNIXベース)があり、PCなど全く必要なかったからだ。導入費用は数千万から億である。ワークステーション(HP)でさえ1台3〜4千万したのだ。個人がPCをもつのはまだ夢の段階だった。使い道も大して無かったが。

だが、今日は1人PC1台(以上)の時代である。マシン性能はクロックレベルで10倍上昇、(無論ムーアの法則は既に破綻したが。) 価格は1/100以下といってもいいだろう。ベンチマークは100倍も差があるだろう。だが、優秀なマシンを作り、使っているはずの日本人の労働生産性の低さが指摘された。世界的に見ても年間労働時間は減ったにも関わらず、労働効率が悪い・・・。労働時間の減少は単純に法改正によるものである。

では何が悪いのだろうか? その良い例がある。公共機関もしくはそれに準じる設備(Jアラートなど)における不具合の多発だ。一般人には理解できないだろうが、状況を調べるとその多くがソフトウェアの不具合であることが多い。

ここで経験上、大変残念なことを言わねばならない。日本の“自称“技術者(ソフト、ハード含む)の8〜9割が理工系出身ではない、ということだ。高卒、専門学校、法学部出身など、論外のお方々なのである。

われわれ専門家から見ると、ド素人が、サラリーマンより良い給料が欲しくて“プログラムをやってみた“というだけなので、彼らにハードウェア、ソフトウェア技術に関する学術的なレベルの知識は全くない。チューリングシャノン の原論文も半導体工学や物理学の基本も知らない。超音波技術による探傷プログラムの自慢をしていながら超音波理論の音響インピーダンスを全く理解していない。さらにGPS、携帯電話の仕事に関わっていながら相対性理論を全く理解できていない(まあ、当然だが。)。高度な仕事のほんのごく一部に従事しているだけで大変な鼻の高さなのである。

海外から見た、日本人のハードウェア、ソフトウェア技術者(特に派遣)の評価を御存じだろうか? 欧米の評価は、日本のSE=システムエンジニアは“下請けプログラマのまとめ役”程度なのである。

理工系の学士でもマスターでもない者が何故“SE”なのか? 実に不思議な国ニッポンである。

かくも低レベルで、視野も裾野もせまい日本の“自称“技術者たちは、世界からは全く無視されている、ということを理解しなければいけないのだが、それを本人たちが全く理解できていない。根拠も無く、この小さな島の中で自分は優秀だと思っている。実に恥ずかしいことだ。自己完結の、皮被りインチキ技術者が蔓延しているのが日本の実情である。守銭奴の典型。これは今後も、永久に続くだろう。これまで40年以上続いてきたからだ。

さらに、日本国内には学習塾が蔓延している。学習塾は考えることを身につけるところではない。解答を記憶するところである。よって、多くの塾通いした子供は、学生、大人になっても即解答を求め、ネット上から拾ってきたいい加減な内容でも解答として納得してしまう。それ自体を吟味しない、即ち、自分で考えることができないので、思考力がどんどん下がって行ってしまう。

 小学4年生から英会話を習わせるという。主たる目的は日常会話とのことだが、日常的に会話するのが“日常会話”ではないのだろうか? 日常的に会話はしないのだから、“非日常会話”と呼ぶべきだし、その効果は今後も相変わらず“ゼロ”だろう。

外国の例を見ると判るのだが、英語をパブリック・ランゲージに指定している国は結構あるが、ネイティブ・ランゲージ(現地語)のある国では、筆者の経験上、ある比率で英語を話せない人々が必ずいる。したがって誰でも話せるようにするというのはそもそも無理なのである

特に日本人の場合は文法構造や発音の問題があり、そう簡単には聞いたり話せるようにはならない。筆者は日本語以外2ヶ国語を話すが、十分話せるようになったのは社会人になってからである。必要に応じて学べばいくらでも頭に入る。無理やり小学校から全員にやらせるのは無理があり、間違いなく問題が生じるだろう。これは頭の良し悪しに関係ない。うまく出来ない子供へのケアはどうするつもりなのか? 未だに意見を聞いたことが無い。

“クモン”のように学習障害(LD)の子に対して、できるまで2時間も3時間も同じことをやらせて夜9時になっても家に帰さないのだろうか? 政府及び教育界の対応が見ものである。

 人間の能力はギリシャの時代からさほど変わってはいないとも言われる。事実、今も中学では図形という名前で2000年前に完成した幾何学を学んでいる。

今の若者も子供も、高度に発展しすぎたスマホやPCなどのツールをすべては使いこなすことができず、また簡単な機能ばかりを使用して容易にネットから解答を得てしまい、記憶せず、自ら吟味することがない。なぜユーチューブの動画をテレビで再生できるのか? そのリクツを考えようともしない。敢えて言うなら我々の時代より明らかに能力が下がっていると言える。

また、ツールばかりが先行してしまい、人の脳の訓練が間に合っていない。高度で豊富な内容を誇るWindows7〜10。搭載されたアプリをフルに使っている者はこの日本に何人いるだろうか? 否、PCの能力を100%使用するアプリを使用しているものは何人いるだろうか? 巷で見るパソコン教室。教室通いが終わるとPCはそのままお蔵入り。ほとんどの一般人にとって、PCは機能が多すぎる=過剰機能の商品なのである。前述の家電品の話と同じである。

 知り合いにPC(Win8.1)を買い、PC教室に通ったあと葉書印刷以外は3年間閉じたままになっていた主婦もいた。だが今は、葉書印刷だけでなく、日々、画像操作・処理ソフトなどを駆使して様々なレーベル作りなどして楽しんでいる。(筆者が使い方を教授した。PC教室で習ったワードやエクセルは結構なのだが、文書作りなど月に1回でもあれば良い方で、めんどくさいから最終的には手書きで済ませたし、結局は自分のやりたいことのために全く役に立たなかった、と言っていた。ブラウザ画面の更新ボタンも入力モード変換用ファンクションキーのことも教えてくれなかったというから、まったくその通りである。)

大分話がそれてしまったので元に戻そう。

今日、正規、非正規労働者の待遇改善やワーキングプアの問題が大きくクローズアップされている。もはや「汗水たらして誠実に働く」だけでは生きていけないのが今の社会であり世界だ。時代錯誤もほどほどにしてもらいたいものだ。

著者らは今の10代からの自殺者の数を把握しているのだろうか? 日本の社会=学校社会に希望を感じられず、絶望感に打ちひしがれ、自死への道に踏み込み、例え興味本位であっても、最後は悲惨な事件に巻き込まれて落命する。その大きな原因の一つが日本社会に蔓延する拝金主義である。それは戦後の政治の無責任体制を支持してきたこの国民性に起因するのだ。そう簡単に「カジノの経済効果ばかりを宣伝する政府」が無くなる訳ではない。日本人自らが作り出しているのだからだ。

また、われわれ科学者と技術者の中間に位置する者には実に忸怩たる思いがあるのだが、「原発事故」と繰り返し非難するその無責任さだ。ギャンブル一般への言い様とまったく同列ではないか。原子力発電所は津波の被害を受けて破壊されたのであり、それ自体が原因ではない。津波がなければ普通に稼働していたのである。しかも原子力発電所は現在の最高の技術力を結集して作られているのである。堤防が低いから、ポンプが稼働しないから事故と言う。それは大きな勘違いである。天災というものはそもそも防げるわけがない。最近言われている北海道沖巨大地震や30年前から言われている東海大地震などの対策として、100mの堤防で日本列島を囲めば完全なのだろうか? 内陸に巨大地震がまた起こったらどうするのだろうか? まだ耐震構造の家など田舎にいけばほとんどない。地震だけではない。国内には多くの活火山が現存する。火山に蓋でもしろと言うのだろうか? 未曽有の大雪や大雨による災害も多発している。全国の人の住む土地に土を盛って50m高くすれば解決するのだろうか? 日本列島に屋根でも付けろというのだろうか? 

こうした多くの要因によりこれまで以上の被害が起きる可能性もあるのだ。それが日本列島の宿命である。

無責任なことを文字に言葉に出し過ぎである

大震災と原発を無理やり「人為」という点だけで接続するのは論理的に無理がある。現代科学の力では天災を未然に防ぐことはできないのであり、人と人工物はすべてその被害に遭う、ただそれだけの力関係である。安易に政治の責任にしてはならないし(但し、民主党のようなクソ政党には徹底的に責任を取らさねばならない。バラマキの結果、40兆円もの国債を3年間も発行し続けて国の財政を破綻に導いた。震災の時のクソ対応。政治力の無さ。今もはびこる立憲、民進などの残党どもは全員議員辞職すべきだ。こ奴らにくれてやっている税金をもっと有効に使うべきである。) 自分の無知を棚に上げてワーワー、ギャーギャー騒いではならない。肝に銘じるべきである。

最後に”被災者と住民の間に軋轢が生じている“というテーマだが、どこへ行ってしまったのだろうか?
かなり気になっていたのだが、全くその“軋轢”が掘り下げられていない。重大な社会問題であるはずだが、結局はPやギャンブルの批判さえしておけば、被災地の安全だった住人の代弁をしたことになり、艱難辛苦に苦しむ人々のことなどどうでもいいということなのだろう。何とも中途半端な内容である。被災地のPを断罪するのも、日本のギャンブルを断罪するのも結構だが、非難するばかりで何一つその代替案がない。被災した人、社会的経済的弱者の人々、会社を定年退職した人々、障害のある人、今まさに労働している人、様々な人が楽しみや気晴らしの一つとして選択しているPである。車いすで、今は角台限定ではあるが、Pを楽しみに来る人がもっと増えてもいいではないか? 身近なところで、老若男女の差なく気楽に楽しめる遊技(ゲーム)はそれほど多くは無い。まぁ、五月蠅いので耳栓は必要だが。

 聖人君子ぶり1段高いところから見下ろすのではなく、人々と同じ位置に立ち、もっと下から見て考えることが重要ではないだろうか? 今はそうした作家は実に少ない。筆者は中高生の勉強を見ながら、高校生を主な対象にできるだけ定期的に読書会をするようにしている。テキストは、真のジャーナリスト・伊藤千尋氏の書である。「人々の声が世界を変えた!」「観光コースではない ベトナム」など、伊藤氏は、子どもたちでも補足をすれば読むことができ、且つ世界とその歴史を知ることができる良書を多く書かれている。最近のルポに絶対貧困に関するある著者の本が中学入試に出たときは仕事上何冊か読ませていただいた。だが、エログロな事実だけの報道は衝撃的だが、全く先が見えてこない。また子供に読ませられない部分も多い。品位ある情熱といっては失礼かもしれないが、伊藤氏の著作には現地の取材+歴史観や政治の力関係のわかりやすい解説がそれと共に織りこまれている。その取材力と洞察力には実に敬服する。そして、現代国語の問題ではないが、文章が優れている点も見逃せない。

今筆者は物理、化学、数学、英語、国語を中心に教えているが、こうしたことを続けていると、理系向きの子供が「先生、今まで学校では目標もなく、成績で選択した方向で勉強してきたけれど、もっと国際政治や経済にも興味が出てきました。」と言ってくれるのは実にうれしい。
ルポライターやジャーナリスト、作家を自称するなら、伊藤氏の著書をすべて読んでから自分のその肩書がふさわしいのか自問自答するがいいだろう。(おっと、開高 健氏も忘れてはならない)

そういえば昔「間違いだらけの**」という本が一時はやった。もうこのような本は出版しないでいただきたいものだ。やはり“岩波”の名が本当に泣くゾ


 

<物書きのスタンス2>

「ギャンブル依存症」 田中氏は一体、物書きとして現場に行くこともせず、Pの遊技形態も大きく変化してきていることも無視している。全てを一緒くたにして、一方的にPを違法ギャンブル扱いして悪と断定、客を全て依存症扱いする。これでは全くナンセンスである。ろくな調査もせず、データも掲載せずに、近年のアメリカの精神分析を鵜呑みにして、何でもかんでもアディクションという言葉の下に病的と言い放つ。

ではアディクションとは何か? 田中氏の定義は明らかに「やめられない心」だ。間違いではないが、それではほぼ全人類がアディクションを有することになる。これはごく当たり前のことである。みんなが依存症のわけが無い。ここはひとつ、よく考えてみよう。人間は幸福を求め且つそれを感じることで安堵感を味わいたいという根源的な欲求をもつ。人生においては、この満足感を得た後は再び喪失感に苛まれるというこの繰り返しがごく自然に去来する、即ち、これらは人生の自然のサイクルの一部であり、自分の力で自由にコントロールすることはできない。 アディクションとは、「本来人間の力ではコントロールできないこの自然のサイクルを、無理やりコントロールしようとする企て」である。そして、それがいくつかの原因により発生すると、3つの段階を経て重症化し、人を死へと向かわせる。この恐ろしいサイクルを如何に断つかが重要なのであり、ギャンブルを止めたからと言ってアディクションのサイクルが断たれることはなく、代替行為によってごまかされてしまうことをこの著者は30年に渡るセラピストとしての経験から述べている。

どうすれば悪循環に陥った人が人間らしい生活に戻ることができるのか? 著者は1対1のカウンセリングの限界をのべ、その良い例としてAA等の自助グループを取り上げている。(これは後にも出てくる)そこでは「人と心をかよわせ」て、「人生を意味あるものに」しようとすることが重要であり、「自分一人の力では無く、仲間と一緒に回復するという意識をもつことが大事だ」と言っている。(グレイグ・ナッケン著 「やめられない心」依存症の正体 より引用 )

グレイグ・ナッケン氏の解説は論理的で非常に判り易く、日本人の素人の知ったかぶりの「脳生理学」や「ドーパミン・トリガー論」に全く依存せず、人間性に重点を置いて、問題の発生からその循環、さらに抜け出せなくなった循環(サイクル)からの脱出までの“困難”と“希望”を、実例を挙げながら丁寧に解説している。

 だが、一つ問題がある。それは訳者が訳注でやたらとP批判を繰り返していることだ。ここで取り上げた2冊の本と共通しており、無用とも言えるだろう。おかげでせっかくの良書が台無しだが、例を全て挙げてみよう。アメリカに住んでいると世界の辺境の島国に住むイナカモンとは異なり、やっぱりエライのだろう。こんなことを見下すようにノタマワッテいる。

 Pは実質的にギャンブルであり、単調な玉の動きを追う繰り返しが止まらなくなる。

P台に座っている者全員がアホウか? 遊技している間中、玉の動きを追っている者などいない。もしいたなら違う意味で病気だ。それなら雨が降ったら上から下に落ちる雨粒をずっと見続けることになるだろう。
 ナムー、チーン!

玉の動きを確認するのはまず打ち始めである。しっかりと電チュウに入る“ブッコミ“の位置を確認するためハンドルを調整する。次は、回転ムラによる回転数(ボーダー)の低下を対策するとき。大当たり中は無駄打ちをしないよう玉数をカウントしながら打ちだす。(もちろん平打ちでもかまわないが。)玉の動きを見るのは、まぁ、このくらいだろう。訳者は大きな勘違いをしているようだ。思い込みはアディクションの始まりだ、注意しよう。

 Pはスロットよりはるかに強いアディクションを引き起こす。始めは覚醒感、続けている内に飽満感に包まれる。煙草をくわえたまま体が固定して台を見つめている人の目つきはほとんどうっとりしている。この人たちはさらにニコチン・アディクションでもある。

 “スロットよりはるかに強い”という根拠がどこにも示されていない。筆者は20年以上前に止めたのでタバコをやらないが、煙草をくわえたままで打っているのは、当たりが来て“ホッ”とした時と当たりがなかなか来ず、イライラした気分をほぐす為に吸っているのであり、その目は“うっとり”してなどいない。台を睨んでいるのだ。煙草を吸いながらPで遊技中の人はまたまた“アホウ”か? なにか大きな勘違いをしてないだろうか? 完全な思い込みだ。

 スロットマシンから得る高揚感についての著者の記述の後。
Pはスロットマシンよりスピードがずっと早く、機能も複雑な分だけ、心理的作用も大きく、より強いアディクションを引き起こす
P165では完全に断定している。

 えー、なにのスピードが速いのか? Pの玉なら1分間に100個打ちだされるがどれも目で追いかけられる程度のスピードで落ちてくる。だが、PSのドラムのは目が回るほど早い。Pの方が多少は機能が複雑だが、“心理的作用が大きい”とはなんでしょう? 単に穴に玉を打ち込むだけではない、その新しい機能を理解するのがまた楽しみなのだが、なぜ精神的に大きな負担になるようなことを言うのだろうか? 全く不明。またPSには上に液晶画面が付いており、P同様に画面の展開は早い。なにを根拠に心理作用の大きさやアディクションの大きな原因となるというのか全く意味不明である。やはり、思い込み。

 最近ではPの害が公営ギャンブルの比ではないことがようやくわかり始めている。(訳者あとがき)

 この書の出版が2012年。“Pの害が公営ギャンブルの比ではない”といっているが、その根拠もデータも見当たらない。 “ようやくわかり始めている”というが、2011年でも2012年でも結構なのだが、どこでどのようにわかりはじめているのだろうか? 自分の著書がないなら、参考文献を掲載すべきである。やっぱり、思い込み。

明治から一体何年経過していると思っているのだろうか? いつまでたっても日本人の悪い癖は直らない。常に近視眼的で欧米の思考の跡をなぞって行くだけである。自分の頭で考え、現実に適用し、再構築することこそが重要なのだ。われわれの物理学を中心とした理工学の世界では常識である。工学系出身者でもその常識を持たないものが多いことは非常に残念である。

少々脱線してしまったが、まぁ、とにかくあきれたことをよく文章に書き起こすものである。
では、元にもどろう。
かつて身内にギャンブル依存症の者があり、相当な迷惑を被り、自分も依存症になったが今は回復し、依存症を考える会を主催しているという。そこまでは問題ない。
その後、多数の事件・事例を挙げ、ギャンブル依存の結末が精神的、経済的破綻、社会的信用の失墜を招くことを説き、それらのギャンブルは犯罪への最短ルートであり、すべてPや競輪・競馬のために人生が狂ってしまう、としている。

そして日本人は家庭内の問題を隠蔽する傾向があり、依存症を本人も認めたがらないとし、日本は依存症対策が最も遅れており、海外の例を参考に早急に対策すべきである、と提言している。


本人の体験を元にしているので説得力はある。提言も結構なのだが、何といっても驚くのは、「ギャンブル」「ギャンブラー」の文字が大量に印刷されている点である。10分ほどの間に数えてみた。
その内訳は
 1章が49個/17ページ
 2章が177個/82ページ

1,2章は合計99ページ、この中に「ギャンブル」「ギャンブラー」の文字が226個使用されている。
2ページ当たり最大13個。2ページ30行あるので2〜3行に1つとなるが、2行に3個使われている場所もあるので大変目立つ。忙しいので他の章は略。

これは大変失礼だが、「ギャンブル文字依存症ではないだろうか? それとも読者の洗脳目的だろうか? 技術特許文書以外で、このような文には初めて出くわした。とにかくそれらを高速に読み飛ばしていかないとかなりの苦痛を感じる。普通の人なら数ページで読むことを止めるだろう。

さらに極めつけがある。「ギャンブル依存症」田中氏は、アメリカのディズニーランドを取り上げ、アルコール依存症の自助グループによるミーティング(AA)が開催されていると紹介している。その主旨は、禁酒中の旅行者が旅先でつい一杯飲んでしまうのを避けさせるためだという。著者は日本のCSRも見習うべしと無条件で大絶賛している。その運動は結構なことであり、見習って良い点もあるだろう。

だが、それほど手放しに受け入れていいものだろうか? 

(ここでちょっと一休み!)


注)AAとは、Alcohorics Anonimous 即ち、1935年にアメリカで、匿名(Anonimous)のアルコール依存症者たちが飲酒問題を解決したいと願い集まった自助グループのことを指す。

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