新台入替、当日11月○日9:10。マクドナルドに入る。平日だが、久しぶりに有給休暇を取ったのだ。
友人Sが既に奥に座っていた。その位置はP店の入り口が丸見えなのである。
まだ客はいない。
「おはよう、Nさん。寒いですけど、9:30には出ましょう」
既に心ここにあらず、という感じだ。
「パチリンピックの後は酷い台ばかりでしたねぇ」
「それを言わないで。エラい損害を受けましたからねっ! 今日は稼いで1時間ゆっくりと昼メシを食べましょうよ!」
「いや、全くです」
自分は現金機が主だったのでCRによる損害は全くなかった。だが友人は現金機よりなぜかCR機にこだわった。
「Sさん、どうして現金機を打たないんですか? マジカルチェイサーで稼いだじゃないですか・・・?」
「やっぱりね、爆発力がね」
「っていいますけど、5回リミッタが消えない限り爆発はしませんよ」
「まったく、ルパンもリミッタが付いてるからね、早く無くなればいいのに・・・」
そうこう話している内に、P店入り口、既に3人。
S氏「こりゃまずい、行きましょう」
われわれは4,5人目となった。問題無しである。
さて、この頃は、新台入替の日に整理券など配る店は無かった。店に早くに並び、8人以内に入ることが台確保の条件だった。
9:55、ドアが開くと客が凄い勢いでなだれ込む。中には転ぶ人もいる。間に合わなければ、車の鍵を上皿に投げ込む者もいる。なんと、いつも来る腹の出たブータレ顔のオヤジでさえも、転んだ人を忍者のように軽快に飛び越える。
なんという修羅場だろうか。
日頃、仕事で修羅場を潜りぬけていながら、せっかく取った休日までこのような“修羅場”にいるとは。何とも因果なことではある。
とにかく台の確保は2人揃ってできた。
後は急がず、貯玉2000個を払い出して打ち込むだけである。そう、この店は貯玉プレイを2000個だけ認めていたのである。これを会員カードで払いだして打つのだ。朝から、ジャラジャラと店内に払い出しの音が響いている。
その後も決めごとがあった。10:00まで打ってはいけないのだ。ハンドルに触ってもいけない。もし触ると玉を打ち出す音がハデに響き渡る。すぐに店員が来て注意される。客にも睨まれる。そのようなことでは素人丸出しだ。
上皿に玉をいれ、じっと待つ。台にはデモ画面が出ている。
10:00。店内にT−SQUAREの軽快な音楽が鳴り、戦闘開始!
”本日もご来店、誠にありがとうございます。パチンコは粘りと根性・・・”
いつものアナウンスが始まる。玉の音が次第に大きくなっていく。みんなが一斉にルパンを打ち出した。
ここでもう一つ、この頃のP店の営業形態について説明しよう。
この頃はまだラッキーナンバー制だった。それは次のようなものだ。確変(奇数)以外の数字では上皿以外の玉は交換で、確変当たりなら持ち球遊戯OK。持ち球遊戯になれば、店員が台の上に“無制限”の札を差してくれる。つまり確変を引けなければ、現金投資が続くのである。このころ4円等価の店は少なく、ほとんどが2.5円だった。従ってクギも甘く、1000円25、30回まわる店はかなりあったのである。逆にいうと、クギが閉まればすぐに分かった。
1時間が経過。8台導入されたルパンだが、全台に当たりが来ている。今までの台とは違うのか・・・?
11:00までに3箱あるのは、自分たちを含めて5台。なかなかデキの良い台である。投資はパッキー1枚のみ。
今更だが台を確認すると、やはり確率1/296.5
の“A”だった。だが、確変中が割と重い。約1/100では仕方ないか・・・
昼までに友人Sとともに大当たり10回、4箱+αを確保。この流れで負けたことはない。無理をせずに1時間の休憩をとった。
2人でよく行く中華料理店へ。
「あとは後半ですね。」
「どこまで伸ばせるかな・・・?」
「とにかくビールでも飲もう。ここでは最近地ビールを販売している」S氏。
「Sさん、早いなぁ、でもいいですねぇ」
食事と共に注文すると、ビールが先に来た。
友人S「ルパンに乾杯!」
「ルパンに乾杯!」思わず笑ってしまった。
友人S「でも、信頼度70%のルパン掃除機吸い込みリーチは、本当にどきどきするでしょ?」
「いやいや、数字が出たり入ったりで心臓に悪いですわ」
2人で「ハハ、アハハハッ」と大声で笑ってしまった。
周囲の客の、どこか冷たい目線が突き刺さった・・・が、そんなものは無視である。
「黙ってメシなんぞ食っていられるかってんだ、お通夜じゃあるめぇし!」
友人Sが笑っている。
1本800円の地ビールを互いに注ぐ。
「さあ、後半がんばりましょう!」
この日は2人揃って大当たり18回と20回。投資3000円、ドハマリも無く4万円近いプラスで終わった。
当然、帰りも例のおかみの小料理屋へ。
それから2週間後。ルパンはこの田舎でも増殖を続けていた。
ある土曜日。会社の同僚と飲んでから、自分だけ行きつけのスナックへ寄ったのだが20:00になっても真っ暗だった。やむなく隣の店にはいると、やはり常連が3人いた。
「ママさん、今日は葬式かい?」
皆の笑い声が響く。
それでも心配した客の一人がママさんに携帯で連絡をとろうとした。
返事が無い。あんな元気なオバハンだが、どこか体調でも・・・とあきらめ半分で話し込んでいると、21:00頃になってようやく連絡が取れた。しかし、来られないというその理由が、
「朝からルパン(K)が爆発して帰れない〜! 今日は店、休みね、よろしくっ! 隣の店で飲んでって〜!」
居合わせた一同、もはや笑うしかなかった。
5回リミッタのハンディをものともせず、ルパンに爆発力があったのは確かである。連チャンは5回で終わりだが、大勝ちの話はあちらこちらで聞いたし、自分でも体験した。だが、その一方で恐ろしい1000回ハマリも散見した。それはもうけ話の何倍もあった。店側が予想以上の出玉を恐れ、釘を締め始めたのもその要因であったろう。
かくして一部のメーカーの一部の台は大成功をおさめたが、各メーカーが発表するほとんどの台は“CCガールズ”、“空手OH”のように不発に終わった。
「1000回転ドハマリ後のプレミアム、ジェットスキーに乗るタヌ吉くんでの通常当たりはほんとムカついたし、当たりもしないバター犬もねぇ、あれはないよなぁ・・・」と友人Sはぼやいていた。
自分は打ってないので今も不明である。だが、かなり痛そうだ!
7.<懲りない人々>
かくして、運もあって当たりを同じ店で重ねていると、いろいろな人が寄ってきた。当然だが当たらない日もあれば、実際20日間勝ち続けることもあった。だが、かれらはタカリではない。逆におばちゃんなどは紙カップのコーヒーなどを持ってきてくれる。70円だが。
この頃は、パッキーカード最後の500円で当たりが来てしまい、上皿に玉が無い場合には、隣にいる見知らぬP客が嫌がることなく両手で一杯に玉を相手の上皿に流してあげたものだった。
「確変ですね〜!よかったね〜」
「どうもすいません、ありがとう」
片手で一握り10や20個の玉ではない。当たりが終われば2000個の銀玉の山だ。その主は両手に玉を持ってお礼を言いながら返してくれる。P店内にも人情があったのである。いつでも鉄火場という雰囲気ではなかったのだ。だが、そんな交流も、ICカードになってからは全く無くなった。
また、ある日曜日の午前中のことである。
「あなたの隣に座ると当たるような気がするのよ」
痩せた品のよいおばちゃんが隣にきて耳打ちしてきた。現金機専門のよく見る顔だ。たばこは吸わない。私もほとんど吸わない。毎日行くわけではないが、新記録達成以来、なぜか隣に来て話しかけてくる人が出現するようになった。
このおばちゃん、この後エライことになるのである。
私たちは1時間の休憩をとり、昼食をとっていた。すると近くで救急車のサイレンが鳴ったような気がした。
店は地下にあり、外の音はほぼシャットアウトされている。
あまり気にすることなく戻ってくると、おばちゃんがいなかった。
昼時で帰ったのか・・・と思っていたら、聞きもしないのに隣の見知らぬオヤジが教えてくれた。
「さっきさ、隣のおばちゃんが急に倒れてさ、救急車で運ばれて大変だったんだよ!」・・・わしらは友達だったか?
倒れるまでPを続けるとは、軟弱そうなおばちゃんもどうやらPに関しては筋金入りのようだ。
合掌!
われわれも、場所は違うが再びルパン、マジカル夢夢ちゃんを打ち続けた。友人Sをみると、打ちだす前になぜか合掌している。今度理由を聞いてみよう。
今日の“マジカル夢夢ちゃん”は大して爆発することもなく、+15000円までは到達した。
3つほど離れた席で中年の男女の客が店員を呼んだ。
「ちょっと、全然まわらないんだけど、なんとかしてよッ」
女が店員に文句を言っていた。
店員はすみません、とか言いながら、玉を4つほど電チュウに入れていた。
クギが読めないとこういうことになる。
そうこうしている内に夕方になった。出玉増が見込めない中、迷っていると、
突然、あのおばちゃんが隣に帰ってきた。
「あれッ? 病院じゃ・・・」
「点滴してきたら元気になったのよ。また来ちゃったわ。」
と左腕をめくって、頼みもしないのに点滴後を見せてくれた。まだ絆創膏が貼ってあった。
「あんまり無理しない方がいいんじゃ・・・」
言葉をさえぎるようにおばちゃんは言った。
「この方が落ち着くし、元気が出るのよね!」ハンドルに手を伸ばした。
もはや何をかいわんや、である。
友人Sは既に帰っていた。私も少し離れた所に座っているおばちゃんを見ながら、店員を呼びだして本日の勝負終了とした。投資2500円、両替金18600円。
1998年2月は冬期オリンピックが行われ、大変な賑わいだった。正に世界規模のお祭りである。飲食店は大賑わいだったが、建設関連以外の企業にとっては特別なものではなかった。